第5回スイス大会
日本のW杯初挑戦は予選で敗退
戦後、日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で、国際社会に復帰することが認められた。日本のW杯挑戦史のスタートは54年スイス大会からだ。
同予選にアジアでは日本、韓国、中華民国(台湾)の3カ国がエントリーしたが、台湾が棄権したことで、韓国とのホーム・アンド・アウエーで勝ったチームに出場権が与えられた。しかし、韓国が日本の入国を拒否したため、2試合とも神宮競技場(現国立競技場)で行われた。
思わぬハンディをもらった日本だが、結果は惨敗だった。初戦でFW長沼健(元日本サッカー協会会長)のゴールで先制したが、立て続けに5失点して1-5の大敗で事実上、W杯出場の道は断たれた。続く第2戦は2-2で引き分け。その後、98年フランス大会に初出場するまでアジアの壁に苦しみ、苦闘は続いた。
日本を破って初出場を果たした韓国だが、世界との実力差はあまりにも大きかった。初戦のハンガリー戦で0-9の大敗を喫した。9失点と9点差負けはいまだに破られることのないワースト記録として残っている。韓国代表OBは「当時は3、4人に分かれて飛行機を乗り継いでスイスに向かった。私が到着したのは試合当日」と振り返る。続く第2戦もトルコに0-7で負けて、敗退した。
スイス大会から半世紀。アジアのサッカーをリードしてきた日韓だが、世界の壁に苦しみ試行錯誤を繰り返しながら、成長した。02年大会を開催し、韓国は4位、日本も16強に入る快挙を成し遂げるまでの道のりは、決して平たんなものではなかった。