第10回西ドイツ大会
1人だけ2本線だったクライフ
キリストをもじり「ジーザス・クライフ」とあがめられたオランダ代表ヨハン・クライフ。未来のサッカーと呼ばれた「トータル・フットボール」を推し進めたスーパースターが鮮烈な印象を残したのが74年西ドイツ大会だが、ピッチ外でも変革が進められた。
開幕3日前にフランクフルトで開催されたFIFA総会で7代目を決める会長選が行われた。それまで西ヨーロッパの伝統国を中心に選出されてきた。だが、ブラジルのジョアン・アベランジェが、その歴史を変える。水泳、水球の選手として五輪に出場し、会社経営で財を成していたアベランジェは、しっかりと根回ししていた。
加盟国数の少ない南米勢の基礎票だけでなく、アジア・アフリカ諸国にも足を運んだ。出場枠の拡大を公約に掲げ、投票を訴えた。そして、南米大陸出身者として初当選。アジア・アフリカともに出場枠1だった狭き門は徐々に広げられ、退任した98年フランスW杯までにはアジア3・5枠、アフリカ5枠と拡大された。
商業主義化も加速する。FIFAのスポンサー、アディダス社は契約しているチームのユニホームの袖にトレードマークの3本線のラインを入れた。それまではシンプルなユニホームが多く、代表チームはほとんどが単色のものを着用していた。3本線が入るだけでも当時としては画期的だった。だが、準優勝したオランダもアディダス社と契約していたが、ただ1人、2本線の選手がいた。プーマと契約していたクライフのささやかな抵抗が、商業主義の到来を予感させ ていた。