第11回アルゼンチン大会
国威発揚、国家再建へ開催断行
アルゼンチンは立候補5度目にして開催国に選ばれた。正式決定は1966年のFIFA総会。だが、開催まではW杯史上に残る極めて暗い歴史をたどった。
開催まで4年に迫った74年にベロン大統領が死去した。踊り子出身のイサベル夫人が世界初の女性大統領として担ぎ出されたが、政策失敗から年率2倍というハイパーインフレを招いて国内情勢は悪化。テロや略奪が横行した。そして76年3月、ビデラ将軍が軍事クーデターによって新政権を確立。政治活動を禁じた軍事政権は反乱分子を次々と連行し、3万とも言われる人々を拷問、処刑した。反政府ゲリラも誘拐や殺人を続け、国内は戦場と化した。
そんな状況に、国際人権擁護団体「アムネスティ・インターナショナル」が同国でのW杯開催を反対。欧州各国も経済不安や治安悪化を理由に、オランダへの開催地変更やボイコットの声も上がった。だが、ビデラ将軍は大会返上となれば国際的イメージを下げ、海外からの投資を獲得できないと考え開催を断行。W杯を国家再建のチャンスとして、空港建設などのインフラ整備に力を注いだ。
圧制に不満を抱いていた国民がストレスを発散できる唯一のものが、サッカーだった。軍事政権はその国民性をも利用した。国威発揚のために代表チームの活動を奨励。メノッティ監督の反政府思想にも目をつぶった。敗戦のたびに監督が交代した当時では異例の4年契約で代表強化を託された。同じ南米ではブラジルが既に3度優勝、隣国ウルグアイも2度の優勝を誇り、プライド高きアルゼンチンは開催の成功はもちろん、悲願の優勝へ威信をかけて大会準備を進め た。そして、FIFAは強行開催を決めた。