第12回スペイン大会
日本人初出場は財津和夫の声
<歌詞>Wake Up Wake Up~。試合前に聞こえてきたのは、財津和夫のヒット曲「Wake UP」だった。
日本ではまだW杯が一般的でなかった時代だが、スタジアムの中には日本の曲が流れていた。大会スポンサーが時計メーカーの「セイコー」だったから、そのCMソングが流れていたのだ。
84年のロス五輪が「商業五輪の象徴」と言われたように、その2年前に行われた82年スペイン大会は「商業W杯の権化」だった。それまで大会組織委員会が独自にしていた大会公式スポンサーとの契約を、初めて国際サッカー連盟(FIFA)が直轄。代理店を使って契約を結び、多額のスポンサー料を手にした。
74年に就任したアベランジェFIFA会長が、安定した収益を得るためにスポンサーとの契約を推進。78年の開催地アルゼンチンが軍事政権下にあり、自由に商業活動ができなかったこともあって、82年大会で一気に商業化が進んだ。
当時のW杯をスポンサーとして支えていたのは、意外にも日本と米国の企業だった(その図式は今も変わらないが)。W杯の盛り上がりからいえば南米の企業が入っていても良さそうだが、現実的にはスポーツイベントに多額の投資をできる会社はなく、公式スポンサーの3分の1が欧州、3分の1が米国、3分の1がセイコーや富士フイルムなどの日本企業だった。
日本も米国も「W杯って何?」という時代だった。もちろん、両国とも82年大会には出ていない。それでも、大会を動かしていたのは日米のスポンサーマネーだった。日本代表の初出場は16年後、日本開催はそこからさらに4年を経なければ実現しなかった。しかし82年大会にも、間違いなく日本は「参加」していた。