高校野球の歴史ひもとく“原点”がリニューアル 目玉の「豊中ミュージアム」には…/寺尾で候
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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穏やかな日差しが降り注いだ小春日和。その球場は阪急電車の車窓から見えてくる。大阪・北摂の豊中市にある「豊島公園野球場」が師走になった1日に大規模改修工事を終えてリニューアルオープンした。
市の花が「バラ」であることから通称「ローズ球場」と親しまれる。アマチュアをはじめ、オリックスが2軍戦を開催してきた。土と芝の入れ替え、スコアボードのLED化など、さらに利便性が高くなった。
新たに生まれ変わった球場を祝うかのような冬晴れのもと記念式典が行われた。スタンドの観客はまばらだが、ここが高校野球の歴史をひもとく“原点”であることを思えば訪れた甲斐もあった。
その豊中市は「高校野球発祥の地」とうたわれている。かつてローズ球場近くにあった「豊中グラウンド」では「第1回全国中等学校優勝野球大会」が行われた。それが現在の「全国高等学校野球選手権大会」だ。
豊中グラウンドは1913年(大2)5月、箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄)が沿線の活性化を狙って建設したものだ。すでに現在の宝塚歌劇団にあたる「宝塚新温泉(宝塚ファミリーランド)」を開場し、エンターテインメントの礎になった。
その陣頭指揮をとったのが、阪急の実質的な創業者・小林一三だった。箕面有馬電気鉄道を設立し、大阪と宝塚、箕面を結ぶ鉄道経営をすると同時に、沿線の宅地造成を進めながら“町づくり”に取り組んだ。
大阪梅田に百貨店を開業、終点に宝塚少女歌劇団(後の宝塚歌劇団)を作った。沿線間の豊中グラウンドに展開したのが「野球」だった。“阪急式”のビジネスモデルを、西武、東急などがマネをした。
朝日新聞社が夏の甲子園の前身となる「第1回中等学校優勝野球大会」をスタートさせる。第1回大会で優勝したのは、京都府立第二中学(現鳥羽高)。野球は人気になって、豊中グラウンドに観客が収まらなくなった。
そこで第3回大会から阪神電気鉄道が西宮市に建設した鳴尾球場に移して行われた。甲子園球場で開催されるようになったのは、24年の第10回大会からだ。同球場はその年8月1日に「甲子園大運動場」としてオープンした。
当時の豊中グラウンドは大正末期に取り壊され、跡地は住宅地になった。その近隣に建設されたのがローズ球場だ。今回のリニューアルの“目玉”は球場内にできた「豊中ミュージアム」だった。
そこには当時の優勝旗をはじめ、歴代優勝校のユニホーム、ペナントなどがディスプレーしてある。また大阪朝日新聞社が1913年7月1日号として掲載した「本社主催 全国優勝野球大会」の社告なども飾られた。
いったん野球経営から撤退した阪急が、再び阪神を統合して野球ビジネスに乗り出したのは、なんとも皮肉なことだ。ただ甲子園はずっと高校野球の聖地として息づいてきた。そのルーツをたどるのにふさわしい日になった。(敬称略)