【7度目の柿木蓮】「自分に対してものすごく腹が立ったまま、7月末を迎えました」

田村藤夫氏(64)の「プレミアムリポート」は、日本ハムで育成契約2年目の柿木蓮投手(24=大阪桐蔭)へのインタビューです。

「プレミアムリポート」は回数を重ねて来ましたが、今回のリポートこそ、田村氏でなければリポートできない取材と言えます。昨年春のキャンプから数回に渡りインタビューを重ねてきた柿木投手が、今の偽らざる心の内を見せてくれています。

どうぞ、最後までご覧ください。

プロ野球

◆柿木蓮(かきぎ・れん)2000年(平12)6月25日、佐賀県多久市出身。多久市立北部小学校2年で野球を始める。佐賀東松ボーイズに所属していた中学3年で143キロをマーク。世界大会の日本代表に選出されている。大阪桐蔭では2年夏の甲子園3回戦の仙台育英戦に先発。3年春は背番号「1」。初戦、準々決勝、準決勝で先発したが、決勝の先発マウンドは根尾に譲った。同年夏の甲子園大会では吉田輝星擁した金足農との決勝戦で先発、完投して春夏連覇を達成した。18年ドラフト5位で日本ハムに入団。プロ通算4試合の登板で0勝0敗、防御率2・08。23年から育成選手。昨季はイースタン・リーグ33試合に登板し、4勝1敗3セーブ、防御率2・21。右投げ右打ち。181センチ、87キロ。今季推定年俸440万。


◆田村藤夫(たむら・ふじお)1959年(昭34)10月24日、千葉・習志野出身。関東第一から77年のドラフト6位で日本ハム入団。93年に初のベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。93年オフ、巨人長嶋監督からFA移籍でのラブコールを受けたが、日本ハムに残留。96年オフには、ダイエー(現ソフトバンク)王監督から直接電話を受け、移籍を決断した。07年からは、中日の落合監督に請われ入閣。捕手としてONと落合氏から高く評価されたが、本人は「自分から人に話すことではない」とのスタンスをかたくなに守る。42年間のプロ野球生活を経て解説者に。通算1552試合出場、1123安打、110本塁打。@tamu2272

■「取材に来た私に、話しやすいようにわざと明るくあいさつをしてくれたのかな」

私が「プレミアムリポート」に取り組み2年が過ぎました。

主にファームに足を運び、1軍昇格を目指して2軍戦でもがく若手を中心にリポートしてきました。その中で、私は柿木投手の奮闘を何度もこの目で見てきました。

今回、柿木投手にとってはなかなか思うようにいかない状況で、再び言葉を交わしました。彼の野球への熱い思いを聞くこともできました。

それは、ただ熱くて、前向きで、未来志向とひとくくりにできない不安や、将来への覚悟も秘めた言葉であったと、取材を終えた今、彼の言葉をかみしめています。

試合前の鎌ケ谷スタジアムで、私を見つけた柿木投手の方からあいさつをしてくれました。

柿木田村さん! こんにちは~。

少し離れていたにもかかわらず、大声で明るくあいさつをしてくれました。私はその力強く、明るい声を聞いてとっさに感じました。「このタイミングで取材に来た私に、話しやすいようにわざと明るくあいさつをしてくれたのかな」と。

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1959年(昭34)10月24日、千葉・習志野出身。
関東第一から77年のドラフト6位で日本ハム入団。93年に初のベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。
93年オフ、巨人長嶋監督からFA移籍でのラブコールを受け(日本ハムに残留)、96年オフには、当時の王監督(現会長)から直接電話でダイエー(現ソフトバンク)移籍を決断。07年から中日落合監督に請われて入閣した。
ONと落合氏から高く評価された捕手だが、田村氏はそうした経緯について「自分から人に話すことではない」というスタンスをかたくなに守る。42年間のプロ野球生活を経て解説者に。プロ通算1552試合出場、1123安打、110本塁打。