辰吉寿以輝の現在地〈12〉フィリピンからの来訪者

平成のカリスマ、丈一郎を父に持つ辰吉寿以輝(27=大阪帝拳)。

日本初の親子世界王者につながる道を一途に歩む。

自身2度目となるサウスポーとの試合が5月18日に迫った。

寿以輝のサウスポー対策はどこまで進んでいるのか。

大阪帝拳ジムを訪れると、見慣れないフィリピン人ボクサーが待ち受けていた。

ボクシング

頑丈なあご、広い肩幅

エレベーターを3階で降りると、正面の木製ベンチに1人の選手が座って、バンテージを巻いていた。

寿以輝のスパーリングパートナーとして来日したフィリピン出身のフェルナンド・タプノ(2024年5月3日撮影・益田一弘)

寿以輝のスパーリングパートナーとして来日したフィリピン出身のフェルナンド・タプノ(2024年5月3日撮影・益田一弘)

発達したあご、発達した上半身、そして丸みを帯びた鼻。

何度もマウスピースをかみしめるボクサーはあごの筋肉が発達し、顔の輪郭がホームベースのようになる。

つぶれた鼻は、打撃戦をいとわないスタイルを示す。

そして広い肩幅と、発達した上腕二頭筋。

フックを打つ際に発達する筋肉だ。

ファイタータイプのサウスポー。

寿以輝がいま求めているスパーリングパートナーにぴったりの選手だった。

左対策は進んでいるのか?

5月3日、午後3時15分。

記者が大阪帝拳ジムを訪れたのは、寿以輝のスパーリングを取材するためだ。

東京・帝拳ジムでの出稽古では多くのサウスポーと拳をまじえているが、記者はスパーリング自体は見ることができていなかった。

記者は4月10日、同16日と帝拳ジムを2度訪れたが、ともにスパーリングのない日だった。

激しいスパーリングの跡

2度目の訪問では、前日15日に寿以輝の相手をした矢代博斗の左目周辺が黒くなっていた。

寿以輝は、左の下唇が切れて、腫れていた。

寿以輝は、帝拳ジムでの東京合宿で左の下唇が切れていた(2024年4月19日撮影)

寿以輝は、帝拳ジムでの東京合宿で左の下唇が切れていた(2024年4月19日撮影)

本人は「スパーリングで切れたんじゃなくて、ヘルペスです。疲れが出ると、たまになるんですよね」とパンチで切れたことは否定した。

ただ、心身ともに追い込んでいることは明白だった。

そして東京合宿後は、大阪に戻ってスパーリングを重ねるという。

誰と?

その答えが、木製のベンチに座っていた人物だった。

吉井会長がフィリピンから呼び寄せたスパーリングパートナーだった。

フィリピンの国内ランカー

フィリピン・フェザー級5位のフェルナンド・タプノ。

22歳のサウスポーで、戦績は7勝(7KO)3敗。

4月22日から5月8日まで約2週間の予定で来日した。

吉井会長は「寿以輝に海外からスパーリングパートナーを呼んだのは初めて。次の相手(チャイワット)は強いし。だから呼んでいる」と説明した。

帝拳ジムでは多くの実力派サウスポーと拳を交えた。

名門ジムはアマエリートが多く、ボクサータイプの正統派サウスポーが多い。

相手と同じ左のファイター

左の優位性を生かしジャブとストレートの組み立て。

大きな経験となったが、寿以輝が対戦するチャイワットは、距離を詰めてフックを振るうファイタータイプ。

接近戦では左の優位性が生かせなくなるため、国内にはあまりいない。

そのため吉井会長はわざわざフィリピンからタプノを呼び寄せて、いわゆる普通のアパホテルに宿泊させている。

時間も金もかけて

ノンタイトル8回戦で、海外からスパーリング相手を呼ぶ-。

期待の現れといえるが、「会長、なかなか張り込んでいるな」とも思った。

吉井会長は「このままではスーパーバンタム、バンタム級の中で辰吉は埋もれてしまう。本当にやる気あんの? いうてるだけちゃうの? とならないように。次の試合で、周囲にしっかり力を見せるという部分もある」と力を込める。

寿以輝のスパーリングパートナーとして来日したタプノは準備を整えた

寿以輝のスパーリングパートナーとして来日したタプノは準備を整えた

はつらつとした空気を発散する22歳のフィリピン人。

寿以輝は、スパーリングの準備をした

寿以輝は、スパーリングの準備をした

一方の寿以輝はすでに減量に入っていた。

無精ひげの下でも、ほおがこけているのがわかる。

体もひと回り小さく感じる。すでに5キロ以上減量して、食事制限も行っている。

最もつらい時期が、あと数日で訪れる気配がプンプンする。

そんな対照的な2人による4ラウンドが始まった。

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スポーツ

益田一弘Kazuhiro Masuda

Hiroshima

広島市生まれ。2000年の入社からバトル、相撲、サッカー、野球を担当して、13年からオリンピック担当。
14年ソチ、16年リオデジャネイロを取材して、18年平昌、21年東京は五輪班キャップを務める。東京五輪後に一般スポーツデスク。
大学時代はボクシング部で全日本選手権出場も初戦敗退。アマチュア戦績は21勝(17KO)8敗。