【少年野球に迫る第11弾】聞こえなくても…マー君に届いたメッセージ/後編

中学硬式野球・荒川ボーイズ(東京)のマー君こと石村将大(3年)は生まれつき耳が聞こえず、話すこともできないため聴覚障がい2級に認定される。小3から硬式野球を始め、グラウンドに立つ姿、プレーの様子はごく自然なのだが、中学進学の際には複数のクラブチームへの入部を断られた。迎え入れた荒川ボーイズは私の次男が所属する。いろいろ読んでいただいた私的なテーマも、とりあえずこれでネタ切れとなる。

その他野球

公式戦用のユニホームが届いたばかりのころ、新1年生で写真を撮った。後列右端がマー君

公式戦用のユニホームが届いたばかりのころ、新1年生で写真を撮った。後列右端がマー君

家族の影響で野球を

東京・足立区に住むマー君は幼稚園の年小、年長のころは健常者と同じ園に、年中の時にろう学校幼稚部に通い、地元の小学校に入学した。

父淳一さん(50)によると、幼少時代は「おとなしくて、あまり動かない子でしたが、集中力は高かったです」という。

野球を始めたきっかけは、家族の影響だった。淳一さんも聴覚が不自由な「ろう者」で、取材はマー君と同じくアンケートに記入する形で行った。筑波大附属ろう学校軟式野球部でプレーして、卒業後も43歳までいくつかの草野球チームに所属した。

マー君の母親も聴覚に障がいがありながら、ソフトボールを経て、鹿児島の名門・神村学園高で女子硬式野球部に所属した。2人の姉もソフトボール選手だ。

マー君によると「親がやってて、それを見て野球をやってみたくなったからです」と説明する。小2で学童チームに入り、小3で硬式球を使うリトルリーグのチームに入り、6年生までプレーした。

当時一緒のチームに所属していた荒川ボーイズの野村伊吹(3年)は「子供のころからよく打っていた印象があります」と振り返る。

入部当時の凜々しい表情のマー君

入部当時の凜々しい表情のマー君

入部を断られて

リトルリーグは中学1年の夏まで所属できるが、マー君親子は東京都立中央ろう学校(杉並区)に入学と同時に、中学硬式野球のクラブチームに入ることを希望した。

いくつかのチームに打診したが、聴覚障がいを理由に断られた。

硬式野球は危険を伴う。マー君は小3から硬いボールを使ってきたのだが、どこも周囲も含めた安全面への不安が理由だった。

知人に荒川ボーイズOBがいて、紹介で体験入部した。荒川河川敷、扇大橋そばの練習場に足を運ぶと、当時合わせて15人ほどの上級生が迎えてくれた。

向田孝幸代表が「うちは断る理由がありません」と受け入れの姿勢を示してくれた。入部を断られたどのチームよりも小所帯だったが、関係なかった。

淳一さんは「うれしくなりまして、お世話になることを決めました」と振り返る。

入部届を提出した親子に向田代表は「他の選手と同じように接しますよ」と伝えた。

2022年4月、マー君は荒川ボーイズの一員になった。

試合前、選手資格審査証を役員に示すマー君(左端)。他の選手は少し心配そう

試合前、選手資格審査証を役員に示すマー君(左端)。他の選手は少し心配そう

他の選手と同じだから

向田代表は「正直、安全面で心配でした。でも、最初は親子で『お願いします』ってやってきても、高校行ってからか、その先なのか、1人でやっていかないといけなくなりますよね。親はいつまでもかかわっていられない。その時のために、このチームの野球を通じて役に立てれば。その気持は他の選手と同じだから、断る理由はなかったんです。ハンデがあって野球をやるなら、人一倍、目配り、気配りしていこうってね」。

日本少年野球連盟(ボーイズリーグ)東京都東支部にも確認したが、「大変ですね」との反応はあったが、入部に問題はなかった。

余談だが、公式戦でベンチ入りすると、連盟役員による選手資格審査証の確認があり、その際、本人が名前と生年月日などを読み上げる必要がある。連盟のはからいで、マー君だけは見せるだけで了解され、時々、隣に並んだ選手が代読することもあった。

手話、筆談よりも

入部が決まると、すぐに1年生チームの監督を務める田中貴司コーチらが筆談用のホワイトボードと手話BOOKを用意した。

ほかのチームの聴覚障がいの選手が、所属チーム用に野球バージョンのオリジナル手話を作り小冊子にまとめたものを譲り受けてきた。

同期入団の12人はコミュニケーションをとるために、少しずつ覚えていくつもりだった。しかし、それはつかの間のことだった。

吉川楓(3年)は「あいつ、頭がいいんです。手話を使わなくても、口をパクパクしていると、途中で『分かった』って理解する。それで、分からなければ、手に書いたりした方が早いんです」。

ホワイトボードも当時1年生主将に指名された久我元太(3年)がしばらくこだわり、いつもそばに用意していた。

石井達一監督やコーチ陣の指示を筆談で伝えていたが、時が流れるうちにその機会も減っていった。

ほんの少し、声が出ることが分かったころには、小冊子もボードも、ワゴンタイプの用具車に置きっぱなしになっていき、黒い袋の中にしまわれたままになっていた。

夏季合宿では大盛りご飯がお約束です

夏季合宿では大盛りご飯がお約束です

プレーはどうか。青砥昊(3年)は、初めてフライ捕球の練習を見て「よくできるよなあ。ハンデがあるのかな? と思ったぐらいでした。足は遅かったけど、肩が強かった」。

フライの練習は打撃マシンの角度を調整して打ち上げるパターンがあった。選手が先に走り出したところに打ち上げる、アメリカンノックもあり、どの選手も「ボンッ」という発射音を頼りにするが、マー君は目が離せないから難しい。

当初は苦戦していたが、次第に慣れて、捕球を繰り返すようになった。

勘の良さと技術の高さを発揮していったが、気になる点もあった。集中力が続かず、向田代表はそれを「サボり癖があるんですよ」と厳しかった。

確かに同じことを繰りかえすトレーニングなどは、力が入っている時と、そうでない時の様子が極端に違った。それなのに、ストップウォッチなどで残り時間を示すと、あっという間に力を入れ、終わらせてしまう。

サボリ癖なのか、要領がいいのか、言い方が難しいが、根気よく何かに取り組む様子をあまり見せなかった。

思春期にありがちな「熱血」に照れるタイプなのだろうか。

練習試合をベンチから見つめるマー君(手前)

練習試合をベンチから見つめるマー君(手前)

じゃれる、じゃれる

練習が終われば、下ネタに走る。

長嶋柊(3年)は「最初はおとなしいやつなんだなと思ってました。そうしたら、どこかで犬の○○○をみつけて、興奮してました。それからは何かあると○○○!」

野村は再び小学生のころを思い出し「そういえば、○○○は言ってたな…」。

使用機会は少なかったがホワイトボードにも「○○○」と自ら書いて大笑いしていたとか。

久我主将は「特に○○○が好きだったんじゃなくて、そうやって、オレらとじゃあれているのが好きだったのかも」と分析している。

いきなり、後ろから仲間のお尻をたたき、大笑いすることもあった。特に下半身がしっかりした本多勇人(3年)に絡んでは、じゃれ合いを通り過ぎ、取っ組み合いのけんか寸前になることもあった。

当時はまだ小6から中学生になったばかり。表情も行動も、子供っぽさが抜けてなかったころの思い出だ。

入部の際、マー君の両親からも向田代表に「けんかを始めたら、放り出してください」と申し出があったというから、小学生のころもよくあったのだろうか。

その後、トレーニングでコンビをつくると、この2人がよく顔を合わせた。斎藤恵太郎(3年)は「結局、あの2人はいいコンビだったな」とスキンシップで深めていった友情に目を細めた。

いつの間にか名コンビ? になったマー君(下)と本多

いつの間にか名コンビ? になったマー君(下)と本多

ボール判定に不満!?

1年生のうちに、できるだけたくさん投手をつくろうと、いろんな選手がマウンドに上がった。

ある練習試合でマー君が先発投手に抜てきされた。

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編集委員

久我悟Satoru Kuga

Okayama

1967年生まれ、岡山県出身。1990年入社。
整理部を経て93年秋から芸能記者、98年秋から野球記者に。西武、メジャーリーグ、高校野球などを取材して、2005年に球団1年目の楽天の97敗を見届けたのを最後に芸能デスクに。
静岡支局長、文化社会部長を務め、最近は中学硬式野球の特集ページを編集している。