【荒川静香〈中〉】子どもたちへのまなざし 「フレンズ・オン・アイス」にいまも生きづく思い

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第33弾は、プロスケーターとして19年目を迎えるトリノオリンピック金メダリストの荒川静香(42)の今を追います。3回連載の第2回では、今年も8月30日 ~9月1日にKOSE新横浜スケートセンターで公演が控える「フレンズ・オン・アイス」の第1回を創り上げた2006年、プロ生活の一歩目から大事にしてきた後進育成への思いに迫ります。

(敬称略)

フィギュア

次世代のスケーターをオープンカーに乗せた理由

早春の陽光に照らされながら、見渡せば沿道には切れることがない人垣が続いていた。

2006年3月27日、宮城県仙台市の東二番町通り。午後0時30分から始まったトリノオリンピックの凱旋(がいせん)パレードだった。

荒川は白いオープンカーに黒いジャケットを着込んで乗り込んで、首からはドーナツ型の金メダルを提げた。

トリノ五輪後、荒川静香は郷里の仙台市でがい旋パレードを行い笑顔を見せた(2006年3月27日撮影)

トリノ五輪後、荒川静香は郷里の仙台市でがい旋パレードを行い笑顔を見せた(2006年3月27日撮影)

東京で生まれ、神奈川・鎌倉で過ごし、父親の転勤で1歳4カ月から仙台で過ごした。

「平日にもかかわらず多くの人に集まっていただいてびっくり。すごくうれしかった。できるだけ多くの人にメダルを見てほしかった」

370人の警備員を動員し、集まったのは7万3000人の市民。笑みを絶やさずに手を振って感謝の意を示す車中、その隣には小さなスケーターの姿があった。

1月に行われた国体の小学生大会で優勝を飾った本郷理華が、オープンカーのドアからわずかに頭半分を出して、緊張した面持ちでキョロキョロと周りを見回していた。

それから数年後、国際大会で活躍することになる事はまだ誰も知らない、仙台・岩切小に通う3年生は当時9歳。

国体6位で仙台・折立中3年の鈴木翠さんと一緒に、2人を乗せた理由があった。

「本当はもっと大勢を乗せたかったです。スケートをしている子供たちのパワーの源となってくれれば」

後に続く未来のスケーターたちへの思いを込めた計らいだった。

この時、既に心の中ではプロの道へ進むことを決めていた。そして、その新たなフィールドで何を残していきたいのかも、明確に心の中で見定めていた。

「フレンズ・オン・アイス」の始まり

2024年の夏に18回目を迎える「フレンズ・オン・アイス」の第1回は、パレードから1カ月半後、5月8日に新横浜スケートセンターで催された。

その前日7日に引退会見を開き、翌日に自らが企画立案したショーでプロの一歩を踏み出すという異例のスケジュールだった。

プロ転向を表明し、会見を開いた荒川静香(2006年5月7日撮影)

プロ転向を表明し、会見を開いた荒川静香(2006年5月7日撮影)

「悔いが残ることなく、やっとピリオドが打てた。新しい道へ出発できることをうれしく思います。今は小学1年の入学するようなワクワクする気持ちです」

ピンク色のシャツに白色のジャケットを羽織って約120人の報道陣の前に立った会見では、晴れ晴れとした表情が印象的だった。

晴れ晴れとした表情でプロ転向を表明した荒川静香(2006年5月7日撮影)

晴れ晴れとした表情でプロ転向を表明した荒川静香(2006年5月7日撮影)

視界が開けたのは3月、振り付けのために訪れていた米国だった。

「日本で目まぐるしくいろんなことが動いている中で、『はっ!』っとなった瞬間がありました」

遠く離れた日本では、トリノの熱狂が色濃く残り、競技中につけていたイヤリングが売り切れるほど人気商品になれば、五輪前からCMに出演していた「金芽米」の売り上げが急上昇、などなど。その後に流行語大賞に輝く「イナバウアー」のモノマネを小学生がする姿は、日常の光景となっていた。

荒川静香は「金芽米で有名になりました」とPR(2006年5月23日撮影)

荒川静香は「金芽米で有名になりました」とPR(2006年5月23日撮影)

その熱から少し距離を取り、3年前、アイスショーという世界を教えてくれた米国の地で、自らの行く末を思案していた。

そして、霧が晴れたかのように、1つのアイデアが体を貫いた。

「アイスショーで生きていきたいと思ったのであれば、アイスショーを立ち上げて、これまで一緒に戦ってきた、関わり、ゆかりのあるスケーターとともに世界を創り上げられないかなって」

すぐに仲間たちに電話をかけた。

本田武史、田村岳斗、高橋大輔、恩田美栄、中野友加里、宮本賢二ら。次々に賛同者が増えていった。

「スケーターがやりたい形で、作りたい形で、みんなで作ろうと言って、最初に始まって。今もそれは残っています。グループナンバーがたくさんあるのですが、全て振付師さんを個別に呼ぶのではなくて、出ているスケーターに頼む。『こういうテーマだったらこの人がいいんじゃないか』という采配だけを私はやって。依頼して作ってもらう」

かけがえのない「フレンズ」。

ショーの公演名も決まった。

そして、仲間に囲まれる中で、何よりも大事にしようと考えていたことがあった。その仲間のように輝いて欲しい未来のスケーターたちへのまなざしだった。

「キッズ枠」のスケーターへの思い

「フレンズ・オン・アイス」を前に、荒川には毎年楽しみにしている時間がある。

「上手な文章じゃなくていいんです。本当にやってみたいんだなという気持ちが伝わってくれば。そういう子に参加してほしいから」

読み込むのは、18回目の公演で必ず設けてきた「キッズ枠」へ応募してきた小さなスケーターたちのさまざまな思い。

自己紹介、ショーへの意気込み、荒川へのメッセージなどが書き込まれた資料に目を通し、出演してもらう2名を決めていく。

「写真と文章だけで選びます。動画を見てしまうと、『この子はここのショーに合うな』とかプロデューサー目線で選んでしまうので。上手な子ではなくて、いかに出たいという思いが強いか、そこを大事にしてます」

ずっと、その信念は変えない。

インタビューに答える荒川静香さん(撮影・河田真司)

インタビューに答える荒川静香さん(撮影・河田真司)

「世界で戦うことに意識を持ち始めたのが私はすごく晩年だったので。でもショーを知る機会が、子供のうちからあればなと。『フレンズ』もキッズが体験してもらうことで、『こんな世界に進みたいな』というモチベーションにできたらいいなという思いもあったので。将来的にアイスショーっていう世界もあるので、そのために頑張ろうねって。いろんな動機付けがそこで生まれる企画なのかなと思っています」

自分の進むべき道を授けてくれたショーという世界。それはフィギュアスケートの持つ可能性も示していた、

競技者として活躍を目指す中でも、さまざまな目標があって良い。成績だけが全てではなく、成績はその先につなげるための価値であっても良い。

18年前、ショー創設をひらめいた時に軸にあったのが、そんな実体験からくる後輩たちへの貢献の仕方だった。

「小さいうちからチャンスがあればなって。一般公募にする意味は、どんな人にもチャレンジする機会が持てたらいいなって思って。そこに意味があると考えています」

子どもたちに伝えたいアイスショーの世界

トリノの快挙から数カ月でのショー立ち上げの慌ただしい中で、第1回は公募の手配までは手を尽くせなかったが、子どもたちのためにという理念はしっかりと形に残した。

招いたのはパレードでオープンカーに同乗していた本郷理華、そして本郷の3学年上で同じく宮城県出身だった中村愛音。

「彼女たちはその時、リンクの閉鎖が決まって、仙台から名古屋へ、親元を離れて引っ越さないといけない事が決まった後で」

荒川も小学1年生から高校卒業までを過ごしたコナミスポーツクラブ泉・スケートリンクは2004年のクリスマスに閉鎖となっていた。

それまで指導を受けてきた長久保裕が名古屋に拠点を移したのをきっかけに、まだ小学生と中学生だった2人も、この2006年の春から仙台を離れていた。

本郷はパレードの翌日に、名古屋へと向かっていた。

「試合とは違った楽しみを見つけてほしかったんです」

「フレンズ・オン・アイス」のリンクで演技した、当時9歳の本郷理華(2006年5月8日撮影)

「フレンズ・オン・アイス」のリンクで演技した、当時9歳の本郷理華(2006年5月8日撮影)

荒川の「トゥーランドット」から始まった第1回の「フレンズ・オン・アイス」。その第2部の冒頭から本郷は「キューティーハニー」、中村は「さくらさくら」を堂々と滑って見せた。

荒川自身がフィナーレ―で「アヴェ・マリア」を滑り終えて、幕が下りた後に訪ねた。

「試合と今日、どっちが楽しかった?」

「今日!! !! 」

目を輝かせながら教えてくれた姿に胸が熱くなった。

競い合う世界から、創り合う世界へ

東日本大震災の後には、公募ではなく東北の子どもたちを招いて、少しでも楽しんでほしいと企画したこともあった。

「フレンズ・オン・アイス」での体験を今につなげてくれているスケーターがいることが、何よりの喜びでもある。

「松田悠良ちゃんも出てくれていたんです。いろんなところで、『フレンズのキッズに出たんです!』という子がプロスケーターにも増えてきて、すごいうれしいなと。ずっとスケートに携わり続けている子が増えてくれて」

いま、プロスケーターとして活躍の幅を広げる本郷が、「フレンズ~」に出た事でスケート観が変わり、毎年出演できるように頑張っていたという本人の談話を聞くと、優しくほほ笑んだ。

世界選手権での本郷理華(左)と長久保裕コーチ(2016年3月31日撮影)

世界選手権での本郷理華(左)と長久保裕コーチ(2016年3月31日撮影)

そして、あらためてたどってきた道を思い返した。

「どうつなげるかっていうのは全く漠然としてたので。『根付かせたい』『ショーをもっと広めたい』という思いはあっても、その方法というか、それは全くわかってないまま。もう本当に突き進んできたっていうだけなので。残せたらいいなとは思って。こんなに続けられるとも思って始めたわけではないので。一夜限りのアイスショ―で始まって、次の年もできるかどうかっていうことは全く考えずに最初は立ち上がって」

2024年5月8日、「X」に書き込んだ。

20年目の節目も見えてきたいま。40歳を超えて滑り続けてきたいま、そしてその先へ。

1つの区切りと新たな貢献への取り組みについても考えるようになってきた。

(つづく)

スポーツ

阿部健吾Kengo Abe

2008年入社後にスポーツ部(野球以外を担当します)に配属されて15年目。異動ゼロは社内でも珍種です。
どっこい、多様な競技を取材してきた強みを生かし、選手のすごみを横断的に、“特種”な記事を書きたいと奮闘してます。
ツイッターは@KengoAbe_nikkan。二児の父です。