【本郷理華〈上〉】「とんでもないですね」苦笑と反省で振り返る幼少期 仙台で育まれた原点

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第34弾は、プロスケーターとして新境地を開き続ける本郷理華に迫ります。9月に再演が控える「ワンピース・オン・アイス」でのMr.2・ボン・クレー役が大評判も呼ぶ27歳の歩んできた道。3回連載の第1回では、「キャラ立ち」してた幼少期の反省も踏まえながら、宮城県仙台市で成長していく様を描きます(敬称略)

フィギュア

インタビューに臨む(話してる風の)本郷理華さん(撮影・小沢裕)

インタビューに臨む(話してる風の)本郷理華さん(撮影・小沢裕)

今では考えられない性格だった幼少期

本郷はいま、「あの頃」を振り返る指導者やスケート関係の知己の方々に、頭を下げているのだという。

「『本当に申し訳ございませんでした!』って。記憶にはないんですけど、小さい時なんですよ…」

その声のトーンは上がるが、恥ずかしくもあり、泣き顔を作ってみせる。そんな過去を振り返りながら、ただどこか明るく聞こえてしまうのも、大人になった27歳のスケーターの魅力だろう。

「本当に小さい頃は自己主張が激しく、今では考えられないくらいの性格で…」

衣装姿でおどけたポーズを決める幼少期の本郷(本人提供)

衣装姿でおどけたポーズを決める幼少期の本郷(本人提供)

いまも親交厚い恩師の関徳武の述懐に驚かされたこともある。

母裕子に連れられてリンクに来た本郷にスケート靴を履かせてあげたことがあった。

「その時ね、『ありがとう』じゃなくてさ、もう『履かせてやってるわよ』って態度でさ」

そこに一切の批判的な意味合いは含まれない。むしろ、笑って振り返れる格好の思い出話なのだが、本人にとっては物心つく前の自分の〝悪態〟を1つ1つ、知らされるようで…。

「とんでもないですね。当時を知ってる人からのそういう話が出る度に、謝らせていただいてます!」

肩身を狭そうにして、その来し方を顧みる。

滑り始めた理由も、記憶にないほど、自然なことだった。

母が青ざめた強弁エピソード

母のおなかにいる頃から、氷の上にはいた。

日本におけるフィギュアスケート発祥の地である宮城県。

仙台市青葉区に1978年12月9日に開場した勝山スケーティングクラブで、母は全日本出場経験を持つ選手時代を終えた後も教室で講師役などを務めていた。

「おなかが大きくなっても滑っていたというのは聞きました」

1996年9月6日、杜(もり)の都で産声を上げた。

母は職場に幼子を連れて行った。

「3歳くらいの頃から氷の上に乗って遊んでいたらしいです」

体が大きく、足のサイズが早期デビューを促してくれた。

「靴のサイズは貸し靴なので5、6歳が最少だったんですが、3歳で履けていたらしいんです。ジャイアントだったんですね」

四つんばいではなく、しっかりと滑っていた。その感覚は覚えていないが、もう1つの重要な記憶もない。

「自分でスケートやりたいって言ったらしいです。大学生の頃かな、母に『私って、自分でスケートやりたいって言ったの?』と聞いたら『え、覚えてないの。やりたいって言ったのよ。何をいまさらって』って(笑い)」

リンクでポーズを決める幼少期の本郷(本人提供)

リンクでポーズを決める幼少期の本郷(本人提供)

母は親子2代を望んだわけではなかった。ただ、競技を開始したのが小学校高学年で、どうしても先に始めていた妹に追いつけなかった過去があった。練習量をいくら積んでも、埋められない差が競技開始年齢にあると痛感していた。もし娘が興味を示したならば、早いに越したことはない。本人の意思確認をした上で、受け入れた。同時に、その性格は気にかけてもいた。

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スポーツ

阿部健吾Kengo Abe

2008年入社後にスポーツ部(野球以外を担当します)に配属されて15年目。異動ゼロは社内でも珍種です。
どっこい、多様な競技を取材してきた強みを生かし、選手のすごみを横断的に、“特種”な記事を書きたいと奮闘してます。
ツイッターは@KengoAbe_nikkan。二児の父です。