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紙面企画

私のレジェンド

私のレジェンド

過去19回行われた世界最大の祭典。全世界のファンが魅了され、スーパースターに酔った。誰にでもいるW杯のヒーロー、それぞれの一押し選手を「私のレジェンド」として連載する。

派手さはないのに堅実ベッケンバウアー


<日本人欧州プロ第1号 奥寺康彦氏>

 やっぱり、西ドイツのベッケンバウアーだな。初めて見たのは66年イングランド大会。まだ21歳だったけれど、なにげないパスが正確で、相手の守備の穴を突いていた。派手さはないけれど堅実。上体を起こした優雅なプレーは、サッカーを始めたばかりの中学生の自分には衝撃的だった。

 もっと驚いたのは70年メキシコ大会。準決勝のイタリア戦で脱臼した右肩をつったままプレーを続けた。精神力を感じたね。そして74年西ドイツ大会。テレビで見たベッケンバウアーはすごかった。スライディングタックルをせず、すべて読みと相手との間合いで守りきる。ドイツの優勝には感動したよ。まさか、自分が3年後に行くとは、夢にも思わなかったけど。

 国民性かな。当たり前のプレーを、当たり前にこなす。堅実に、与えられた仕事をやり遂げる。ベッケンバウアーは、そんな「ドイツ」の象徴だった。ブラジルやオランダの派手さもいいけれど、ドイツの強さは堅実さなんだ。僕が9年間ブンデスリーガでプレーできたのも「東洋のコンピューター」と呼んでもらえたのも、ベッケンバウアーのプレーが頭の中に残っていたのかもしれない。

 彼が米国からハンブルガーSVに戻った時、ブレーメンで対戦した。30代後半でスピードは落ちていたけれど、相変わらず「読み」はすごかった。うれしかったのは「日本がW杯に行くためには」と質問された時に「奥寺が11人いれば」と答えてくれたことだね。

 選手として優勝し、監督としても優勝した。06年には組織委員長として大会を成功に導いた。トータルで「W杯のレジェンド」だと思う。頭も切れるし、人望もあった。本当の「皇帝」だった。最近は一線から引いているけれど、世界のサッカー界のためにもっと働いてもらいたい人だよ。

 ◆フランツ・ベッケンバウアー 1945年9月11日、ドイツ・バイエルン州生まれ。59年にバイエルンの下部組織入りし、64年にプロ契約。欧州チャンピオンズ杯(現リーグ)3連覇で欧州最優秀選手賞も2度手にした。ニューヨーク・コスモス、ハンブルガーSVでもプレーし、83年に引退。西ドイツ代表103試合14得点で、74年W杯西ドイツ大会に優勝した。引退後は西ドイツ監督として90年W杯イタリア大会に優勝し、バイエルン会長、国際サッカー連盟(FIFA)理事などを歴任した。

















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