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OGGIの「毎日がW杯」
荻島弘一(おぎしま・ひろかず):1960年(昭35)東京都出身。84年に入社し、スポーツ部勤務。五輪、サッカーなどを担当して96年からデスク。出版社編集長を経て05年から編集委員として現場取材に戻る。
急変した日本の歴史は20年/よもやま話
日本代表の初W杯は、66年イングランド大会。出場ではなく「視察」だった。64年東京五輪ベスト8のご褒美として、欧州遠征の帰りに観戦した。スタンドに入ると、観客が総立ちの拍手で迎えてくれた。8強入りした北朝鮮選手団と間違えたのだ。「驚いた。すごい大会だと思った」。当時監督だった故長沼健氏は、生前にそう話していた。
日本代表は82年スペイン大会も視察。監督の故森孝慈氏が「若い選手に経験させたい」と考え、実現させた。この時のチームが86年メキシコ大会出場まであと1歩と迫った。もっとも、木村和司氏は「自分が出るなんて、まだピンとこなかった」。当時の日本では、W杯は「見るもの」で「出るもの」ではなかった。
90年にブラジルから帰国したカズが「W杯に行く」と公言し、92年就任のオフト監督が「目標はW杯」と臨んだ94年米国大会最終予選。「ドーハの悲劇」で日本でのW杯が変わった。日本サッカー界全体が本気で出場をめざし、日本全体が後押しした。結果、98年フランス大会から5大会連続で出場。第1回ウルグアイ大会の30年から続くW杯だが、日本での「歴史」はわずか20年にすぎない。【荻島弘一】