10・20「ミスターラグビー」平尾誠二さんを偲ぶ~1人の写真家が追い続けた35年

ラグビー元日本代表の平尾誠二さんが53年の短い生涯を終えたのは、2016年10月20日のことだった。あれから8年。先日、平尾さんを追い続けてきた写真家の岡村啓嗣さんが大阪・豊中市のラグビークラブハウス98で講演した。愛する人々の心の中で、今も平尾さんは生きていた。

ラグビー

1995年5月27日、W杯南アフリカ大会 予選リーグC組 日本―ウェールズ

1995年5月27日、W杯南アフリカ大会 予選リーグC組 日本―ウェールズ

命日に振り返る
在りし日の勇姿

スクリーンに映し出された1枚の写真がある。

モノクロームの画像の中で、頭を抱える背番号10の姿。

その手前でもう1人の選手はうずくまっていた。

「負けて悔しがる姿というのは、後にも先にもこの1枚しかないです」

物静かな、ゆっくりとした口調。40数年前を思い出すかのように、岡村さんはそう明かした。

その10番とは同志社大(以下、同大)の1年生、平尾誠二であった。

時は1982年1月2日。

東京の国立競技場であった全国大学選手権の準決勝・明大戦。

オールドファンであれば、遠い記憶がよみがえってくるかも知れない。

“誤審”ともいわれた退場劇によって同大の連覇が途切れた、語り継がれる一戦である。

ノーサイドの笛が響いた瞬間の、平尾さんの後ろ姿をとらえた写真。

当時は同大の黄金時代。

2連覇を目指しながら、志半ばで途絶えた道だった。

1年生のSOとして背負った重圧。

国立は超満員だった。

カメラマンは人を映し、物書きもまた人を描く。

長く取材活動をしていると、ごく稀(まれ)にではあるが、その人物に吸い込まれ行くような感覚に陥ることがある。

写真家としての岡村さんにとって、平尾誠二こそがその対象であった。

写真家の岡村啓嗣さん(左)とラグビージャーナリストの村上晃一さん。スクリーンの写真は1982年1月2日の大学選手権準決勝、10番が平尾さん。この写真以外はサムネイルも含む全て日刊スポーツの撮影です

写真家の岡村啓嗣さん(左)とラグビージャーナリストの村上晃一さん。スクリーンの写真は1982年1月2日の大学選手権準決勝、10番が平尾さん。この写真以外はサムネイルも含む全て日刊スポーツの撮影です

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編集委員

益子浩一Koichi Mashiko

Ibaraki

茨城県日立市生まれ。京都産業大から2000年大阪本社に入社。
3年間の整理部(内勤)生活を経て2003年にプロ野球阪神タイガース担当。記者1年目で星野阪神の18年ぶりリーグ制覇の現場に居合わせた。
2004年からサッカーとラグビーを担当。サッカーの日本代表担当として本田圭佑、香川真司、大久保嘉人らを長く追いかけ、W杯は2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、ラグビーW杯はカーワンジャパンの2011年ニュージーランド大会を現地で取材。2017年からゴルフ担当で渋野日向子、河本結と力(りき)の姉弟はアマチュアの頃から取材した。2019年末から報道部デスク。
大久保嘉人氏の自伝「情熱を貫く」(朝日新聞出版)を編集協力、著書に「伏見工業伝説」(文芸春秋)がある。