【本田ルーカス剛史〈中〉】「強く生きないと」 困難を乗り越えてたどり着いた頂点

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第29弾では、本田ルーカス剛史(21=木下アカデミー)を描きます。昨春同アカデミー所属の清水咲衣とペアを結成し、今年3月2日に閉幕した世界ジュニア選手権にも出場。シングルとの二刀流は今季限りで、今後はペアで世界を狙っていきます。

全3回の中編では、日本フィギュア界の先駆者である山下艶子の元からはばたき、2020年全日本ジュニア選手権で優勝するまでの道のりを描きます。(敬称略)

フィギュア

インタビューに答える本田ルーカス剛史(2024年4月3日撮影・前田充)

インタビューに答える本田ルーカス剛史(2024年4月3日撮影・前田充)

「強く生きないと」

電話口から漏れる、山下の寂しそうな声。母から手渡された受話器からは、いつもの厳しい雰囲気は感じられなかったー。

それは、中学1年生の時。人生の転機は、突如訪れた。

2013年、自身2度目の全日本ノービス選手権で4位に入り、トップ選手になる夢を追いかけていた本田。3回転ジャンプには苦労していたものの、得意とするスケーティング技術はみるみるうちに向上。野辺山合宿に参加したときには、2006年トリノ五輪銀メダリストのステファン・ランビエル・コーチからも褒め言葉をもらい、夢がそう遠くないと感じ始めていた。

山下との二人三脚で、上を目指せる―。そう信じて疑わなかったが、ある日、その山下が倒れたという知らせを聞いた。当時、師は80代半ば。そのまま入院し、練習は当分の間自主練習の形をとることになった。

突然の出来事。

通い詰めた大阪・難波のリンクに行っても、いつもの光景とは違っている。いつも響いていた「違う!」という厳しい声も、「そうそうそう!」という優しい声も、そこにはない。同じ場所、同じ仲間と練習しているはずなのに、何となく落ち着かなかった。

「頼っているという自覚というか…。教えてもらってはいましたし、実際頼ってもいたんですけど、やっぱりいなくなると結構頼ってたんだなと。精神的にすごい安心して練習ができてたんだなと、そのとき気づかされました」

1人で練習する方法は、十分教えてもらっている。ジャンプが崩れたって、自力で立て直せるはず。それでもー。精神的支柱を失った喪失感は大きく、師の偉大さを改めて感じさせられた。

だが、そんなつらい状況に置かれても立ち止まることはしなかった。いや、立ち止まることなんてできなかった。

「山下先生も、入院しながら毎日腹筋20回しているとか言っていて。元気だなあと思って(笑顔)。先生が腹筋してるなら僕もやらないとって。頑張ろうって思いました」

約5年間ともに歩んできた大切な人は、病室でもトレーニングしている。

「強く生きないと」

そう言い聞かせて自分を律する本田は、目の前の練習に没頭しつつ、成長した姿を見せるためにも新しい選択肢を求め始めた。

移籍して確信「これをやっていれば、うまくなれる」

振り返った先に、長沢琴枝が立っていた。日本の元女子ペア選手で、島田高志郎、三宅星南らを育てた指導者。

「困っているなら、助けてあげるよ」

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スポーツ

竹本穂乃加Honoka Takemoto

Osaka

大阪府泉大津市出身。2022年4月入社。
マスコミ就職を目指して大学で上京するも、卒業後、大阪に舞い戻る。同年5月からスポーツ、芸能などを取材。