【佐藤駿〈下〉】大切にする感謝「ありがとうございます」挫折を乗り越えた二十歳

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第26弾は、2月の4大陸選手権で銀メダルを獲得した佐藤駿(20=エームサービス/明治大)。2月6日で二十歳となり、シニア5季目の来季に向けた充電期間に入っています。

全3回でお届けする連載の下編は「感謝」をテーマに、歩んできた競技人生をたどります。(敬称略)

フィギュア

世界国別対抗戦でのフリーの演技(2023年4月15日撮影)

世界国別対抗戦でのフリーの演技(2023年4月15日撮影)

“偉い方々”のあいさつから学んだ

幼少期からを振り返る佐藤の言葉は、単純明快だった。

頭を悩ませる質問にはあらためて自問自答するように考え込み、あふれ出た思いを言語化する。

「会う人、会う人に感謝しながら、今後もやっていきたいと思っています。『ありがとうございます』とか、そういう言葉を増やしていこうと思っています。口に出して言うと、相手にも伝わります。昔は消極的で、コミュニケーションも全然取っていなかった。大学生、二十歳になって…。感謝の気持ちを含めて、もっとたくさんのコミュニケーションを取っていけたら、人間性やスケートにも生きてくるのかなと思います」

消極的な自分が変わるきっかけがあったのだろうか。

「“そういう話”を結構、聞く機会が多いんです」

具体例をひねり出した。

「例えば何かのあいさつで、偉い方々がそういった『感謝』の話をすると思います。大学の中やアイスショーや外での活動で、そういった話を聞きながら『確かにな』と思うようになり、意識するようにしています」

個人競技だが、世界を転戦する選手1人の力で戦うのは現実的ではない。そこには周囲の数え切れないサポートがあり、身近な人の支えがある。これまでの歩みと“偉い方々”のあいさつの文面は、確かに重なっていた。

全日本4連覇のノービス時代…名前は呼ばれなかった

真っ先に思い出すスケート人生の壁の1つが、今から9年前の夏だった。

小学6年生になっていた2015年。全日本ノービス選手権のノービスBで2連覇を飾り、ノービスAの1季目を迎えていた。

「ノービスA1年目では野辺山で何も選ばれなくて、悔しい思いをしました」

全国中学校スケート大会での佐藤(2017年2月7日撮影)

全国中学校スケート大会での佐藤(2017年2月7日撮影)

全国有望新人発掘合宿の最終日。全員が集う場で全日本ノービス選手権の推薦、全日本ジュニア合宿への参加、国際大会への派遣選手らが口頭で発表された。

「氷上の演技会、陸上、生活態度…。総合的に見られていると思います。名前が呼ばれたら立ちますが、何も呼ばれなかった。多分、総合的に良くなかったのだと思います。へこみました。そこからジャンプの構成を上げたり、上手になっていった気がします」

仙台に戻ると、さらに練習へ身が入った。10月に入って行われた東北・北海道選手権を91・49点で制し、東京・ダイドードリンコアイスアリーナでの全日本ノービス選手権を迎えた。

ルッツに始まり、フリップ、ループ、サルコー、トーループと3回転5種を組み込んだ演技で、96・45点をたたき出した。同世代で親しい佐々木晴也を6・34点差で振り切った。ノービスの頂は譲らなかった。

憧れる羽生結弦との共演「こういう大会に出たい」

悔しさを糧にした歩みは、次のステップへとつながった。11月下旬、長野で行われたNHK杯でエキシビション出演がかなった。

「トップ選手を見るのは初めてで、すごく緊張しました。大きなところに立たせてもらって『こういう大会に出たい』と思うようになりました」

同郷の先輩にあたる羽生結弦が史上初のトータル300点台となる、322・40点で優勝。歴史に残る大会を皮切りに、翌年のNHK杯、世界国別対抗戦のエキシビションでも、憧れの人の姿を間近で見られた。

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大学までラグビー部に所属。2013年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社。
プロ野球の阪神を2シーズン担当し、2015年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当。
2018年平昌冬季五輪(フィギュアスケートとショートトラック)、19年ラグビーW杯日本大会、21年東京五輪(マラソンなど札幌開催競技)を取材。
21年11月に東京本社へ異動し、フィギュアスケート、ラグビー、卓球、水泳などを担当。22年北京冬季五輪(フィギュアスケートやショートトラック)、23年ラグビーW杯フランス大会を取材。
身長は185センチ、体重は大学時代に届かなかった〝100キロの壁〟を突破。体形は激変したが、体脂肪率は計らないスタンス。