【吉岡詩果〈中〉】「ビリになるんじゃ…」黙々と繰り返した練習と“黄金世代”の刺激

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第36弾は吉岡詩果(21=アクアリンクちばSC)が登場します。18年ジュニア・グランプリ(GP)シリーズ第2戦オーストリア大会で3位に入った実力者は、山梨学院大の4年生になりました。9月29日に閉幕した関東選手権では5連覇(ジュニアを含めて6連覇)を飾り、大切なシーズンを1歩ずつ進んでいます。

3回連載の中編では幼少期からジュニアに至る歩みを掘り下げます。(敬称略)

フィギュア

全日本選手権、女子SPで演技する吉岡詩果(2019年12月19日撮影)

全日本選手権、女子SPで演技する吉岡詩果(2019年12月19日撮影)

体を動かすことが好きな人見知り少女

1人黙々と、課題に向き合うことを好む少女だった。

「小さいころは家族や親戚が心配するぐらい、本当に人見知りで“何も話さない子”でした」

東京で生まれ、物心がつく前に千葉県北部の酒々井(しすい)町へ引っ越した。

両親と5歳上の姉、3歳上の兄の5人家族。姉の名前には「杜」、兄に「樹」と自然とつながる漢字が用いられ、吉岡の名付けの際には椎の実の「椎」が候補に挙がった。最終的には画数を考えて「詩果(しいか)」と名付けられた。

幼少期にそりで遊ぶ吉岡詩果(本人提供)

幼少期にそりで遊ぶ吉岡詩果(本人提供)

週末はよくスキーに出かけた。幼稚園や小学生の頃から福島などへ足を運び「スケートを始めてからはやっていないけれど、引退したら、またやりたいです」とほほ笑む。

「猛吹雪の日があって、私は小さかったからなのか、ゴーグルを持っていなかったんです。吹雪で『目が痛い』って、泣いていたのを覚えています」

幼少期、スキーに取り組む吉岡詩果(本人提供)

幼少期、スキーに取り組む吉岡詩果(本人提供)

ある時は上級者コースで滑る父についていき、ストックなしで降りた。平面はなかなか進まないため、時に父のストックをもらって爽快感を味わった。1輪車に夢中になった時期もあった。言葉数は多くない一方、体を動かしていると自然な感情があふれ出た。

姉の影響を受けてバイオリンを習ったこともあった。並行して取り組んだスイミングは、1年ほどで4泳法をマスターした。

「バイオリンは…全然楽しかった記憶がないです(笑い)。姉は大学を卒業するまでずっとやっていて、今も弾いたりしていますが『よくそんなに続けられたな。すごい』と思います」

そんな末っ子も、大学まで続ける習い事に出合った。

出合ったスケート「毎日行きたい!」

酒々井町立大室台小学校1年生の冬、自宅から車で1時間ほどの「アクアリンクちば」へ家族で遊びに出かけた。リンク中央に置かれたコーンの内側で、スピンやジャンプする人たちを見て「自分もやってみたい!」と思った。帰りにスケート教室の申し込みを済ませた。

子どものころ、荷物を運ぶ吉岡詩果(本人提供)

子どものころ、荷物を運ぶ吉岡詩果(本人提供)

リンクで笑顔を見せる吉岡詩果(本人提供)

リンクで笑顔を見せる吉岡詩果(本人提供)

「その前にテレビで浅田真央さんの演技を見ていたことが影響して『スケートか、スキーのモーグルをやりたい!』って言っていたんです。モーグルは千葉では無理で…(笑い)。それで自然とスケートを始めました」

小学2年生の夏ごろから、本格的にコーチの指導を受け始めた。午後3時に学校が終わると、母が運転する車でリンクに向かった。4時過ぎには氷に立ち、夢中で8時まで滑った。

「最初は貸し切りにも乗れないので、一般営業で滑っていました。楽しかったです。本当にスケートが楽しくて(家族には)『スケートに毎日行きたい!』ってお願いしていました」

紙1枚…悲しくなった暫定認定証

コーチの指導は、週1回の頻度から始まった。

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大学までラグビー部に所属。2013年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社。
プロ野球の阪神を2シーズン担当し、2015年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当。
2018年平昌冬季五輪(フィギュアスケートとショートトラック)、19年ラグビーW杯日本大会、21年東京五輪(マラソンなど札幌開催競技)を取材。
21年11月に東京本社へ異動し、フィギュアスケート、ラグビー、卓球、水泳などを担当。22年北京冬季五輪(フィギュアスケートやショートトラック)、23年ラグビーW杯フランス大会を取材。
身長は185センチ、体重は大学時代に届かなかった〝100キロの壁〟を突破。体形は激変したが、体脂肪率は計らないスタンス。