【友松春奈〈上〉】18歳で選んだ現役引退「自分の存在がない気がした」/社会人の今

7月からフィギュアスケートの2024-2025年シーズンが幕を開けました。

2026年ミラノ・コルティナダンペッツォ五輪(オリンピック)を見据えて、多くの有力選手が大事な1年を過ごす一方、フィギュア界から羽ばたき、別の場所で人生を送っている元選手たちがいます。

日刊スポーツで2021年冬に掲載したシリーズ「銀盤に別れを告げた選手たちの今」。第2弾が始まります。

最初に登場するのは日本代表としてジュニアグランプリ(GP)シリーズなどを転戦した友松(旧姓鈴木)春奈さん(27)の「今」。前後編でお届けします。

フィギュア

周囲は名伯楽にオリンピアン…新横浜で目覚ましい成長

2024年6月21日、JR新横浜駅。

人の行き来が多い金曜日の午後7時20分、大きなキャリーケースを引いた友松さんが姿を見せた。

駅近くの喫茶店に入ると、明るい笑顔で発する言葉に強い意志がにじんだ。

気づけば、取材は2時間半に及んでいた。

―地元は横浜市ですが、今は岐阜を拠点に活動されていると伺いました

友松 現役引退後に柔道整復師、管理栄養士の資格をとり、今は岐阜で選手をはじめとした方々の栄養サポートをしています。同時にパワーリフティングの選手としても活動していて…(笑い)。ピラティスにも関わるようになって、帰省や、仕事のことで横浜にも時折帰ってきています。

日本初となる女子限定パワーリフティング大会の際に、弁当を作成した友松春奈さん(本人提供)

日本初となる女子限定パワーリフティング大会の際に、弁当を作成した友松春奈さん(本人提供)

―あらためてになりますが、スケート人生からおさらいをさせてもらいたいと思います

友松 3歳の時に横浜のハマボールスケートセンターで始めました。キラキラした世界、衣装だったりがきっかけで「やりたい!」と言ったそうです。そこから私が「オリンピックを目指したい」と言ったことで、家族が(佐藤)信夫先生にお願いしてくれて習い始めました。

小学生の頃、リンクサイドで話を聞く友松春奈さん(本人提供)

小学生の頃、リンクサイドで話を聞く友松春奈さん(本人提供)

―ノービス時代から「オリンピック」を意識していたのですね

友松 「オリンピックに行く!」と目標を立てて、7級をいつまでにとる、どういうことをやればいいか…とスケートメインで生活していました。周りはすごかったです。村主章枝さん、中野友加里さん、荒川静香さん、安藤美姫さん、小塚崇彦さん…。私が初めて新横浜に入った時に、下のクラスにいないといけないはずが、母が間違えて、トップ選手の貸し切りに入ってしまって…。信夫先生が「せっかく来たんだから、滑りなさい」と許してくれたみたいで、初めて滑った時にすごい人たちの前で曲かけをしました。終わったら皆さんが拍手してくださって、本当にうれしかったです。特に安藤美姫さん、中野友加里さんにはかわいがってもらって、ありがたかったです。

―自信をつけたきっかけはありますか

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大学までラグビー部に所属。2013年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社。
プロ野球の阪神を2シーズン担当し、2015年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当。
2018年平昌冬季五輪(フィギュアスケートとショートトラック)、19年ラグビーW杯日本大会、21年東京五輪(マラソンなど札幌開催競技)を取材。
21年11月に東京本社へ異動し、フィギュアスケート、ラグビー、卓球、水泳などを担当。22年北京冬季五輪(フィギュアスケートやショートトラック)、23年ラグビーW杯フランス大会を取材。
身長は185センチ、体重は大学時代に届かなかった〝100キロの壁〟を突破。体形は激変したが、体脂肪率は計らないスタンス。